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勝海舟(通称・麟太郎、名・義邦)は幕臣・勝小吉の長男として現在の墨田区に生まれました。幼少期に将軍徳川家斉の孫・初之丞の学友を務めましたが、その死後、御家人として慎ましい生活に戻った。剣術を島田虎之助に、蘭学を永井青崖に学び、1850年には赤坂田町で塾を開く。黒船来航後に海防策を建言し、これが認められて長崎海軍伝習所に幹部学生として派遣された。

 

1856年に帰府後、軍艦操練所の教授頭取となり、翌年には咸臨丸を指揮して日本人として初めて太平洋を横断。1862年、軍艦奉行並に昇進し、神戸に海軍操練所を設立。坂本龍馬ら志士の教育にも尽力した。1864年に一度免職されるも、66年に復職し、長州藩との停戦交渉にあたった。

 

1868年、戊辰戦争に際し軍事取扱として東征軍と交渉、江戸城無血開城を実現させた。明治期には海軍大輔・海軍卿を歴任し、旧幕臣の救済や西郷隆盛の名誉回復にも尽力。晩年は元老院議官・枢密顧問官として活動し、海外進出には一貫して慎重姿勢を貫いた。1899年に死去。彼はまた、『吹塵録』『海軍歴史』などを通じて幕末の記録を後世に伝えた。

勝海舟は文政六年一月三〇日(一八二三年三月十二日)に、本所亀沢町(現在の両国公園)で生まれました。

当地には父・小吉の実家である男谷家があり、海舟の一家もはじめこの敷地内で暮らしていました。

やがて文政九年(一八二六年)、本所南割下水の天野左京の地内へ移り、

さらに文政十二年(一八二九年)、海舟が七歳の頃には、本所南割下水の出口鉄五郎の地内へ移ります。

ただし海舟はこの頃から、十二代将軍家慶の五男・初之丞のご学友として御城勤めをはじめます。

 

翌年、勝家は本所入江町の岡野孫一郎の地内へ転居し、御城勤めから戻った海舟は、多羅尾七郎三郎の元へ

読書の勉強に通うのですが、その途上で病犬に急所を噛まれ、重傷を負う事件もありました。

 

天保八年(一八三七年)、初之丞が一橋家を継ぐこととなり、海舟は再び召し出されました。

一橋の家臣となる海舟に、勝家の家督相続の手続きも進められたのですが、

その矢先に初之丞は病で亡くなり、海舟の出世の道は途絶えてしまいました。

 

やがて天保十二年(一八四一年)、「天保の改革」における取締により、

海舟の父・小吉も虎ノ門(現在の永田町)の保科栄次郎方へ押し込めとなったため、一家は本所の地を離れました。

 

その後、維新が成り、海舟と西郷隆盛らの尽力によって江戸城は無血開城され、本所の地も戦火を免れました。

江戸の頃より「相撲」と「料亭」で有名な本所には、維新後の海舟も料亭に招かれたり、相撲観戦に出かけたりと

しばしば足を運んだ記録があります。

墨田の随所に、海舟の面影を見ることができます。

勝海舟の目線で歩く墨田区史跡マップ

令和5年、勝海舟の生誕200周年を記念しい、生誕の地である墨田区内の勝海舟関連スポットを紹介したパンフレット【本所篇】【隅田川篇】を作成しました。パンフレットは区内の施設及び、小中学校で配布致しました。ダウンロードは下のボタンをクリックしてください。

【海舟の足跡】特設サイトへ移動

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勝海舟 年表

HISTORY

ご寄付
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1823(文政六年)

 正月晦日、江戸本所亀沢町にて生れる。

 

1826(文政九年)

 本所南割下水の天野左京の地内へ転居。

 

1829(文政十二年)

 本所南割下水の出口鉄五郎の地内へ転居。

 江戸城本丸の奥に召出され、十二代将軍家慶の五男・初之丞の

 ご学友として御城勤めをする。

1830(文政十三年・天保元年)

 本所入江町の岡野孫一郎の地内へ転居。

 

1826(文政九年)

 本所南割下水の天野左京の地内へ転居。

 

1829(文政十二年)

 本所南割下水の出口鉄五郎の地内へ転居。

 江戸城本丸の奥に召出され、十二代将軍家慶の五男・初之丞の

 ご学友として御城勤めをする。

1837(天保八年)

 初之丞(慶昌)が一橋家を継ぎ、再び召出される。

 男谷道場で目録を許される。

 

1838(天保九年)

 七月、父・勝小吉より家督を相続。初之丞(慶昌)病死。

 島田虎之助の道場(浅草新堀)に内弟子として入り、

 住み込みの剣術修行をはじめる。

 

1840(天保十一年)

 島田虎之助の島田道場(浅草新堀)に、内弟子として入り島田と起居を共にする。

1842(天保十三年)

 この頃より蘭学を学びはじめる。

 

1844(天保十五年・弘化元年)

 神田お玉ヶ池の佐久間象山塾に入塾する。

 

1845(弘化二年)

 薪炭商(兼質屋)砥目屋(とのめや)の娘で、深川芸者をしていた民と結婚。

1846(弘化三年)

 赤坂田町中通りへ転居。

 

1848(弘化五年・嘉永元年)

 前年からはじめた蘭和辞書「ヅーフ・ハルマ」の筆写(二部)完成。

 

1850(嘉永三年)

 赤坂田町のあばら家で蘭学塾「氷解塾」を開く。

1853(嘉永六年)

 ペリー艦隊来航。「海防に関する意見書」を幕府に上申。

 

1855(安政二年)

 一月、蕃書調所勤務を命ぜられる。大坂近海、勢州海岸見分へ。

 七月、長崎における海軍伝習を命ぜられる。

 八月、小十人組への番入り。

 九月、生徒監として長崎海軍伝習所へ。

 

1856(安政三年)

 三月、講武所砲術師範役を命じられ、長崎で受命。

 六月、大番へ番替。

1858(安政五年)

 咸臨丸で九州を巡航。薩摩で島津斉彬、及び久光の知遇を得る。。

 

1859(安政六年)

 一月、築地の軍艦操練所教授方頭取を命じられる。

 七月、赤坂元氷川に転居。

 十二月、両番上席を命じられる。

 

1860(安政七年・万延元年)

 一月、咸臨丸で渡米。翌月、サンフランシスコ着。五月帰国。

 六月、天守番の頭過人、蕃書調所頭取助を命じられる。

    海舟が設計した神奈川台場竣工。

1861(文久元年)

 九月、講武所砲術師範役を命じられる。

 

1862(文久二年)

 七月、軍艦操練所頭取を命じられる。

 閏八月、軍艦奉行並を命じられ、留守居役上と定められる。

 十月、坂本龍馬らを門下とする。

 

1863(文久三年)

 一月、下田・法福寺にて山内容堂公と会見。龍馬ら脱藩者を免罪。

 四月、将軍家茂の摂海視察に従い、神戸海軍操練所建設の許可を直接得る。

 八月、海陸備向、事務頭取を命ぜらる。

 十二月、十二隻の軍艦を率いて、将軍の海路上洛を指揮。

1864(文久四年・元治元年)

 二月、摂海警備及び神戸操練所経営を命ぜらる。

 同月、四ヶ国艦隊による下関攻撃を止めるべく坂本龍馬らを連れて九州へ。

 五月、軍艦奉行に就任。諸太夫に任ぜられ安房守となる。

 十一月、軍艦奉行罷免、寄合となる。謹慎、閉門を命じられる。

1866(慶応二年)

 五月、軍艦奉行に再任。六月、京都で薩摩と会津の間を調停。

 九月、長州との停戦談判のため、安芸宮島へ出張。

1867(慶応三年)

 海軍伝習掛を命じられる。

1868(慶応四年・明治元年)

 一月十七日、海軍奉行並、二十三日には陸軍総裁を命じられる。

 三月、西郷との会見で、江戸無血開城を決める。

 十月、駿府へ移住し、鷹匠町に居を構える。

1869(明治二年)

 外務大丞を仰せられる(後に辞退免職)。

 兵部大丞に任ぜられる。(後に辞退免職)。

1872(明治五年)

 海軍大輔に任官。

 赤坂氷川町四の旧柴田七九郎邸を購入し、静岡より転居。

1873(明治六年)

 鹿児島に出張し、島津久光と西郷隆盛との対立を調停。

 参議兼海軍卿に任命。

1874(明治七年)

 正四位に叙任される。辞表を提出。

1875(明治八年)

 元老院議官に任命されるも、直ちに辞表を提出。

1884(明治十七年)

 前年より吉井友実・税所篤らと西郷隆盛の名誉回復運動を開始。

 隆盛の遺児・寅太郎の参内が実現し、隆盛の名誉が一部回復。

1887(明治二〇年)

 伯爵を授けられ華族に列する。

 内閣総理大臣伊藤博文へ二十一ヶ条からなる意見書提出。

1888(明治二一年)

 枢密顧問官に新任される。正三位に叙任。

1896(明治二九年)

 老衰のため枢密院に辞表提出。

1898(明治三一年)

 海舟の尽力もあり、徳川慶喜初めて参内。

1899(明治三二年)

 一月十九日、死去。一月二一日、発喪。

 二十五日、青山墓地で葬儀。

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勝海舟
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